今月9日、上越市で現職研修会(住職や徒弟が参加する勉強会)があった。
講師は静岡県少林寺東堂 井上貫道老師
「仏道を習うというは~自己を習うなり~」という演題で
まず一番最初に井上老師が口にしたのは
「…人はどういう生き様をしているか」
少し間をおいて
「生きること。これだけが事実なんですね。いつも自分自身と一緒、体がそこにあるだけ。人はいろんなものを見てきたというが、それは自分の目で見てきた物事のみ。自分で見ている時、そこに他人の見方がそこに入ることはないんです。常にクリアではっきりしている状態ではないですか。今見ている様子のみ。今まで見てきたものはそこにはない。本当にそれだけしかないんです」
ここまで開演開始から10分経っていないが、老師が今日ここに立って伝えたいことは本当にそれだけなのだろうと思った。
ただ、1時間半もの時間が用意されているので、他にも色々な体験を語って下さった。
「嫌なことを言われた、言う奴だなと、思った瞬間から問題が出てくる。ただ、どこから腹が立ったのかはわからない。相手によって腹立たされるのではない。それは自分以外の誰でもない。自分で苛立っておいてなぜそれでも相手を責めるのか。それが自己を習うということではないのか」
「仏教を学ぶこと自体、おかしいんです。我々は6つの感覚器官からしか学ぶことはできないのです。文献や祖録を読むのが自己を習うことではない。そして坐禅とは何か今一度考えなおす必要がある。本来、禅とは禅定(ぜんじょう)つまり、行住坐臥、ありとあらゆる状態においても確固とした自分自身であること。だって坐禅をしている時だけが自分ではないでしょう」
そして最後にこうおっしゃった。
「真実はとっておけない、それが素晴らしい」
以上、老師の話をざっとまとめただけの駄文になってしまいました。
自分の拙い解釈と表現では言いたいことが曲がって伝わるかも知れませんが、そこは各人それぞれで味わって下さい。
幼いころから今までの、思考中心生活からガラッと世界が変わるような(実際目に映るものは変わっていないけど)話を聴くことができた。
まだまだ書ききれないけど、今日はこの辺で😊