2025年11月28日金曜日

清水


近所を散歩中に見つけたステキな水受け

自然を利用したこういった遊び心、好きだなぁ

2025年11月26日水曜日

動物供養塔「安穏塔」建立!

当山に新設された動物供養塔「安穏塔」は火葬されたペットのお骨を納め、読経供養するためだけに建てられたものではありません。

普段我々が当たり前にいただいている家畜の命や、知らず知らずのうちに殺している虫や生き物を総じて弔い、これからもその命を闇雲に傷つけることのないよう敬意を新たにし、また、命の儚さと尊さを祈念するものです。

ですので、当山を訪れた方々は直接関係がなくとも、是非、こちらの供養塔に手を合わせてください。

2025年11月23日日曜日

八石登山へ

長男(5歳)と秋の八石山登りへ⛰️

身軽な子どもはさささーっとどんどん登っていく苦笑

有志の方々が登山道整備に尽力してくださっているお陰で通路もいつ来てもキレイです!
ありがとうございます(_ _)

熊に警戒しつつ、山のてっぺんでいただくおにぎりは格別でした🍙




2025年11月13日木曜日

長野より参禅者あり



浄土宗の和尚さんとその学生時代の友人2人が当山の坐禅✕サウナを修めに来られました。

長野はサウナや温泉の聖地だというのにわざわざうちを検索してくださり遠路来てくださいました(_ _)

いやはや、ありがとうございます。

読経 坐禅 サウナのセットでしっかりと流すものを流していかれたようで、みなさん帰る頃には何やら別次元のお顔をされていました笑

ちなみに、和尚さんは2回目です✨️

2025年11月8日土曜日

晋平太 逝去に際して

さきほど上記ニュースを知った。

10年近く前にUMB新潟予選に出た時のMCが彼で、年齢はたしか私と一緒で勝手に親近感を覚えていた。

当日はエントリーが少なくオーディエンスから飛び入り参加を募ってバトルしていたが、私も飛び入りでステージに立った1人。

結果、1回戦延長で負けたが今でもあのステージに立てたことは自分の誇りになっている。

負けた後、ジャッジ(審判員)を選び直す際に、晋平太さんが、じゃあ…マキ!!と指名してくれたのが今は彼との唯一の繋がりとなった。
 
ラップという体一つで等身大の自分を表現できる世界の最前線にい続けていただけに、とても悲しい。

あなたの想いは受け継ぎます。


R.I.P  晋平太


普廣寺 槙 合掌

2025年10月26日日曜日

先住忌


去る10月4日、当山38世並びに39世の年忌法要が営まれました。

特にお付き合いの深いご寺院にお声がけし、厳かなうちに終えることができました。檀家さんもそれぞれお時間を割いて来てくださいました。

子どもたち3人も参列して一緒に手を合わせてもらいました。

準備や段取りに時間を要した分、終えたあとの疲れも気持ちの良いものになりました。

葬儀も法事も、今を生きる我々の縁(結びつき)を自覚してさらなる良縁になるように修めていく行持なのだと改めて思いました(_ _)

随喜された皆さま、本当にありがとうございました。

2025年9月5日金曜日

布施

仏教には「無財の七施」という考え方があります。

金品や形のあるものだけではなく心や笑顔も布施行のひとつであるのです。

ついさきほどのこと

仕事のため、こどもの保育参観を早あがりして徒歩で帰宅途中、通り雨が降ってきました。傘を持たずだったので、ざっと降ってくる前に帰ろうと足早に歩を進めていると後ろから軽トラが来て止まりました。

誰かと思ったら同じ町内のおじいさん。

おい、乗ってけや!
いいからいいから!

と、運転席からドアまで開けてくれ、招いてくれました。誘われるままに乗り、俺もいまお寺のことで配りもん回ってたんだわと話しつつもすぐにお寺に到着。Uターンしてすぐに帰っていきました。

雨はすぐに止み、雲の隙間からまた晴れ間が出てきました。

これはいい布施を受けたなぁとしみじみしました。

人の親切は素直に受け取るものだ、と言われるけど、その行為が打算的であったり、見返りを求めるものであれば、それは布施ではなく貸し借りの世界。

布施はその先に執着をしない「しっぱなし」の行為です。


この気持ちを忘れないうちに書き殴りました。

2025年8月28日木曜日

無題

世界が認めた

とか

全米が泣いた

とか

名のしれた誰々が監修した

とか

そんな商品や宣伝を鵜呑みにすることなく


「私が納得した」


これに限る。


大事なものや大切な人は思いのほか近くにいたり、あったりするのだと思う。


2025年8月23日土曜日

ごめんなさい、は相手への謝罪と自分への許しの効果があると思う。


悪いと思ったら、悪かったと思っていたら、時間が経ってもいいから、謝ろう。


子どもにきつくあたったので、その時のことを謝りました。

2025年5月31日土曜日

モミジとスギナ

先日、2歳をすぎた末っ子と外遊びをしていました。

そこで、自分の目線にあったモミジの葉っぱをむしったのです。紅葉の映えるお寺にしたい私は、えっちょっやめてー!とすぐに手を払ってしまいました。

その後地面に生えているスギナ(つくしの一種で緑色のひょろひょろしたやつ)取りを何の気なしに始めた私ですが、そこでハッとしました。

子どもは目の前の物事に善悪つけずに興味や好奇心で触れたり試したりする。

大人(様々な経験をした人)はどうだろう。

これは悪いもの、これは良いもの。
つまらないもの、楽しいもの。

良し悪し、損得、上下…なんでも優劣をつけて分別してしまう。

もう少し別の言い方で子どもに伝えることができたのではと痛感した出来事でした。

2025年4月18日金曜日

今月の坐禅会について

26日の19時より予定していました、今年度初回の坐禅会は諸事情により【中止】とさせていただきます。

ご予定いただいていた方々には申し訳ありません。

普広寺 住職 合掌

2025年3月14日金曜日

お茶飲み話

子どもにも自分が認められたいという欲求があるんです。優しい言葉で接してあげれば自分が大切にされているんだなということを覚えます。

どうか愛情を注いであげてくださいね。


門前のおばあちゃん宅にお茶飲みに行ってたくさん教えてもらいました。

救われました。
ありがとうございました。

2025年3月11日火曜日

供養の読経をあげました

東日本大震災から14年が経ちます。

同時刻に当山本堂にて読経供養を一巻。

うちの子どもたちも合掌礼拝し、焼香。

誰の身にも起こり得る自然災害や人災ですが、願わくは、私と私以外の全ての有縁無縁の方々が、無事に成仏まで生きることができますように。

普広寺 住職 合掌

2025年3月7日金曜日

歯磨き

2歳過ぎた男の子の歯磨きのひとこま

今朝のこと(大体毎日だが)

自分ではまだちゃんと磨けないのでこちら側(大人)が仕上げで磨こうとする。が

嫌がる。泣く。暴れる。

2歳といえどもその力は強く、かなりのパワー。これは将来が楽しみ。違うか。

羽交い締めの如く動かないようにして泣き喚きながらも歯を磨く。ほぼ強制。

終わるころにはどちらも
はぁはぁ⋯

よく子育て本に、声掛けしながらとかTVの歯磨きと一緒にとか諸々と書かれているが、うちにそんなバイブルは存在しない。

言葉掛け1つで相手の気持ちも変わるんだよなぁと頭ではわかっていても口から出るのはちくちく言葉。
頭でもわかっていないのかも。

日々、反省と挑戦です。

2025年3月5日水曜日

古き良きもの

学生のころから公衆浴場、いわゆる「銭湯」の魅力に恋焦がれています。

当時、築50年くらい?の風呂なしアパートに住み、体育会運動部(アメリカンフットボール)に所属していたので、1日の疲れを癒す、そして翌日に疲れを残さないような努力が必要だったのです。部室脇にあったシャワールームではやはり物足りなく、そこで通い始めた(風呂なしだったので行かざるを得なかった)のが近くのお風呂屋さん、つまり銭湯。

高い天井と広い湯船、そして誰かしらがそこにいて同じくただ黙々と湯に浸かっている。東京にいながらも、俺は1人じゃないんだって再確認させてくれる場所でもありました。

そんな銭湯がいま、関東のあちこちで閉店を余儀なくされているそう。

ある店はボイラーの故障、ある店は店主の高齢を理由に、ある店は土地契約満了による立ち退きで。

私の学生時代のホーム銭湯の二子玉川の新寿湯、野沢の野沢ランド、上馬の明の海、桜新町の鶴巻湯、全て閉店されています。

昨年ふらっと寄った品川の旭湯も今月末で閉めるとか…

明日への生きる力をくれた銭湯がことごとくなくなってゆく。家の湯船では味わうことのできない銭湯という万人癒しの空間を守りたい、そう思う今日このごろでした。

2025年2月27日木曜日

無題

寒波が去ったあとの普広寺

柏崎はここから雪どけが早いです。

和尚のおもう、葬儀とは

おはようございます(_ _)

いつぶりの更新でしょうか…

先日のご葬儀にて、よいお話しをいただきよい戒名を授かりありがとうございます、と参列の方から言っていただきました。

引導を渡す役割を担う和尚としてこれほどありがたい言葉はありません。

自分が思い考えてお付けした戒名が、その時点で他者からみて良いかどうかはわかりません。

事前の施主さんとのやりとりや故人の生前の聞き取り、その後の対応の一言ひとことが、その戒名に「想い」を付与していくことがわかりました。

なので、仮に別々の住職が同じ戒名を付けたとしてもそれぞれの和尚の言葉掛けによって、とても良い(成仏に値する)戒名となるのか、そうではないのか、違ってくるのです。

「成仏」とは、参列する側が一方的に故人に祈ることではなく、故人もまた、参列の方々の成仏を祈っているということ。

自分には両親がいて、その両親から生まれ、その体を自身でむやみに閉ざすことなく、また、他人の生も閉ざすことなく円満に終えていくことを目指す。そのことを、自身の命を活かし切って今日去っていく故人とのご葬儀で誓う。
これが山寺の和尚が思う葬儀の形です。

失敗や至らないところ、ズルい部分も自身の中にあることを自覚しつつ、今日も丁寧に過ごしたいと思います。


画像は大雪の最中、2月半ばの当山本堂前です。